蝋石(ろうせき)と、けんぱ、けんぱ、けんけんぱ

後ろ姿の子どもが
しゃがみこんで
道路に何やら書いている。

男の子っぽい感じで
神やんだったのかなぁ…。

というのが昨日の夢。

後ろ姿の子どもが
しゃがみこんで
道路に何やら書いている。

女の子っぽい感じで
あれ、私だったのかなぁ…。

というのが今朝の夢です。

繰り返し同じ夢をみる
という話は、よく聞きますが

詳細が微妙に変わる夢
って、どうなのかしら?

何か意味があるかしら…?

さて、道路に何やら書く
といえば、そうです!

蝋石(ろうせき)!

アスファルト
けんぱの丸を書いた
あれ、です。

私は運動能力が極めて低い
(という思い込みを抱えた)
子どもでしたから

ゴム飛びは、ゴム係専門。

でも「けんぱ」の
ろうせき跡が残っていると

人のいないときに
けんぱ、けんぱ、けんけんぱ
と、やっていた記憶があります。

誰かがそばにいてくれたような
誰もいなかったような

神やんの夢と同じように
曖昧で優しい記憶です。

アートセラピーと図工が苦手だった私

後ろ姿の子どもが
しゃがみこんで
道路に何やら書いている。

男の子っぽい感じで
神やんだったのかなぁ…。

目覚めて、ふと思い出したのは
心理学の大師匠(師匠の師匠)

アートセラピーの先駆者
Y先生のことです。

アートセラピーというのは
絵画・造形・演奏・舞踊など
あらゆる芸術表現によって
心の健康を目指すことです。

病気や障害の改善
ストレス・感情のコントロール
自己理解などに役立ちます。

アートセラピーひとつに
なぐり描き法というのがあります。

何も考えずに線を書き
そこに見えるものを探し
見つけたものに色をつける。

セラピーを受ける人だけが
ペンをもつ方法もあり

セラピストと交互に
線を描いたり色をつける
という方法もあります。

あらゆる芸術表現の中で
線画や描画というのは
かなりハードルが低いです。

いきなりセラピストの前で
踊ったり歌ったりするのは
抵抗がある人でも

線をなぐり書きするだけなら
とりあえず、やってみるか
と、感じる可能性が高い。

特に「言葉」が苦手な人は
「描く」が得意な人
という可能性が高い。

表現したものを
視覚で確認できますから
保存するなり破棄するなり
自分で選べますしね。

(表現した言葉は
簡単に消せません)

私の場合は幼い頃に
アートセラピー(もどき)を受け
偏った解釈をされた経験があり

大人になってからは
「技法」という言葉に
抵抗感があり

さらに絵を描くのが苦手
という思い込みがあり

アートセラピーの講義は
はっきり申し上げて
超!退屈でした。

そんなんで、心が解放
されるわけないじゃん!

と、思っていました。

が!

Y先生の
交互なぐり描き物語統合法
というのは好きでしたね。

セラピーを受ける人と
セラピストとが
一枚の画用紙を使います。

漫画のコマ割りみたいに
画用紙を区切ります。

交替でなぐり描きして
出来上がった絵をもとに
物語をつくります。

絵は二人の会話です。

キャッチボールです。

そこには映像と感情の
交流があります。

分断された記憶や意識
表現できずに溜まった感情
気づきたくない怒りや哀しみ

などなどを
紡ぐ、縫い合わせる

…統合する効果がある

というわけです。

これも、ひとつの技法なので
合う合わないがありますし

セラピストの技量によって
効果が減少するどころか
状況を悪化させる場合もあり

万能ではありません。

が、アート苦手な私には
描いた後に物語を紡ぐ
というプロセスが
ありがたかった…。

という懐かしの思い出。

行き止まり(行き詰まり)はチャンス

ダラダラと長く緩やかな
上り坂を登っていくと

神やんが「行き止まりだよ」
と笑顔で言いました。

あらら…。

そっか…。

と、夢の中の私は
とくにもガックリせず
淡々と受け止めている。

少し進歩したね、私✌

以前の私ならば

え〜?

そうなの?

早く教えてよ!

と思ったことでしょう。

せっかく、ここまで
登ってきたのに…。

と、恨みがましく
心の中でグチグチ
愚痴ったことでしょう。

何かを求めて
あるいは
何かから逃れるために
坂を登っていたのに

そこには望む結果が
なかったのですから。

さて、ここは行き止まりです。

どうしましょう?

その場に座って
しばらく休むのも、あり。

とっとと引き返し
次の登山道を探すのも、あり。

行き止まりの看板を
倒して先に進むのも、あり。

行き止まりにぶち当たると
心は行き詰まり、苦しみます。

でも、たまたま、ちょっぴり
道を間違えただけです。

この道ではなかったことに
気づいただけです。

気づいたらチャンスです。

心の中にある鏡を
丁寧に磨いていれば
自分の心がクッキリと
映し出されます。

すると、自分だけの
楽に歩ける道が
目の前に現れます。

人間以外の動物たちは
行くべきところに
迷わずたどり着いているようです。

考え過ぎ
気にし過ぎ
迷い過ぎ
こだわり過ぎ
準備し過ぎ

…などによって自ら
行き止まりをつくっている

…ような気がします。

素直な気持ちで「楽」
と感じられるなら
その道を歩けばいい

…と、感じています。

相対的不幸と幸福、絶対的不幸と幸福について

〜相対的不幸論~

こんにちは。
あい出版Tomokoです。

神やんが扉をノック
…したような気がして
目覚めたのが午前2時。

ノックの音、とだけ
メモして眠りました。

そのメモを眺めても
何も思いつかなかったので

書きかけの原稿につけた
仮のタイトル
「相対的不幸論」について
少し書いてみます。

思わぬ災害や病気、戦争など
絶対的な不幸については
いったん横に置きまして…。

私たちが日常的に感じる
不幸、というのは、ほぼ
相対的なものです。

他者との比較や関係あっての
捉え方、ということですね。

比較対象が存在しない
あるいは
対象との関係がない場合
成立しない、存在しないもの。

もともと、ないもの。

ほとんどの不幸は相対的なので
ほとんどの不幸は存在しない

ということになります。

不幸は、もともと、ないもの
なのですっ!えっへん!

相対する対象というのは
他人とは限りません。

自分の希望・願望・理想
なども対象になります。

こうだったらいいな、とか
こうならなくちゃ、とか
こうあるべきだ、とか

自分の思いと現実の
ギャップ(相対)が
不幸をつくります。

自分の中にある
誠意とか良心に照らすと
たいていのことは

なるべくしてなり
ならずべくしてならず

まぁ、当然の成り行き
ということだったりします。

ここまで書いてから
ハッと気づいたので
(遅い)

「相対的幸福論」
という言葉を検索しました。

「相対的幸福論」
は、ありませんでしたが

「相対的幸福」
というのは、ありました。

18世紀イギリスの哲学者
アダム・スミス
「相対的幸福」
「絶対的幸福」
について書いているそうです。

「相対的幸福」とは
財力・地位・名声・能力などについて
自分と他者とを比較し
社会的に相対的な優位性を得る幸福。
持続性のない幸福。

「絶対的幸福」とは
他者の価値観・世間の評価
既成概念・固定観念などを基準にしない
自分本来の感覚により得られる幸福。
できごと、相手、環境に左右されず
持続性の高い幸福。

うーん…。

となると、仮タイトル
「相対的不幸論」は
アダム・スミスの真似
っていうことになる?

などと、しょーもないことを
考えている今朝のことです。

 

空白とは9と8と9のすき間・言霊と数霊

近頃は数字を見ると
チラッと数霊について
考えごとをしてしまう
私がいます。

夜明け前に神やんから
9のかたちをした
珊瑚のようなものを
手渡されまして

それを見ていたら
9のすき間が
クルンと丸まって

8のようになって
あらまぁ、と一瞬だけ
目覚め、また眠りました。

二度目に目覚めて
思い出したのが
空白の話です。

ある方が、空白とは
9と8と9の境目である
と書いていらっしゃいました。

空白とは、全ての源であり
全ての力である、と。

うーむ。

なにか、あるぞっ。

ということで
クウハク
の数霊を見てみましょう。

ク(11)
ウ(19)
ハ(42)
ク(11)
計(83)(8+3=11)

ク(2)1+1
ウ(1)1+9
ハ(6)4+2
ク(2)1+1
計(11)

11という特別な数字が
何度も現れます。

これは、特別なことだ!

ということは
なんとなく感じます。

それだけ(笑)

空白。

空は、ただ体験すること。
体験しているときだけ
モノ・コトは存在する。

白は、汚れのないこと。
意図・思惑・都合によらず
まっさらな状態。

自分が、自分は、自分の
を手放して、空白でいる。

…なぁんて、そんなの
なかなかできないけど…。

空白的に生きられたら
なんだかスッキリして
ちょっとカッコイイ。

なんだかんだと言いながら
欲深い私は、やっぱり
カッコイイのが好き。

生き方、考え方
歩き方、立ち姿

箸の持ち方から
扉の開け閉めまで

カッコイイのが好き。

あらららら。

めちゃめちゃ脱線
してしまいました(笑)

他人の夢に振り回されていませんか?夢がないとダメですか?

夢から目覚めても
そこは夢の中で

また目覚めると
まだ夢の中

何重にも入れ子になった
夢の中の夢の中の
夢の中にいました。

その不思議な感覚は
決して不快なものではなく

ごく自然な、当たり前の
ことのようでした。

半覚醒状態で書いた
枕元のメモ用紙には

「夢」「夢」「夢」と
いくつも夢の字が
殴り書きしてありました。

ふと思ったことは
もうひとつの夢
将来の希望について。

子どものとき、大人から
将来の夢はなんですか?

って聞かれませんでしたか?

私の時代ですと
男の子は、野球選手

女の子は、ケーキ屋さん
パン屋さん、お花屋さん

というのが定番でしたが。

今の人気は
男女の分け隔てなく

スポーツ選手
士業(弁護士・弁理士司法書士行政書士など)
師業(医師・教師・看護師・薬剤師・美容師など)
家業(写真家・芸術家・作家・漫画家など)

そして

クリエイター

なんだそうです。

ユーチューバーさん
とか
ゲームクリエイター
とか
webデザイナー
とかですね。

うーむ…。

将来の夢というのは
やはり現状・環境

周囲の大人の思惑や
思い込みによるもので。

時代の夢、というようなものが
できあがるのかもしれません。

大人の意図や思惑
いっときの流行り

そういう枠を超えたところに
将来の夢を描けると素敵ですね。

私の場合は、母の希望を察知し
その希望と反対側にあるものを
将来の希望に設定した記憶があります。

ところで。

将来の夢が実現しそうにない
とか
将来の夢に向かって動けない
とか
そもそも夢がない、見つからない

といったような
ご相談を受けることがあります。

悩んでいる方に、いつもは
直接は言わないけれど

思っていることを書きます。

将来の夢って
ないと、ダメですか?

見つけないと、ダメですか?

夢が見つかったとして
それ、叶わないとダメですか?

見つかった、その夢って
自分の中から湧き出たものですか?

誰かの希望に応えようとしたり
誰かの希望が自分の希望だと
勘違いしていませんか?

その希望が、自分だけのものであるなら
自然と叶う方向に進みますし

たとえ叶わないとしても
希望に向かうプロセスを
楽しめるはずです。

将来の希望について
悩みがあるならば

希望そのものが
勘違い・見当違い
なのかもしれません。

幸福と降伏について~言霊・数霊~

幸福って、一体なんでしょう?

不満がないこと?
望み通りであること?
ポジティブな状態?

一般的な心理学の教科書には
well-being(ウェルビーイング
持続的に良い状態であること
と書かれています。

キラキラ・ワクワク感ではなく
静かで穏やかな状態が
…長く続くこと。

そして「PERMA」であること。

P:Positive emotion
愛や感謝などポジティブな感情をもっていること

E:Engagement
強い思いをもって集中・没頭・共感できること

R:Relationship
親密な人との関係を大切にすること

M:Meaning
意味・意義を感じて行動すること

A:Accomplishment (Achievement)
達成・学び・成長を感じること

いずれも、たしかに
そうそうそう
と思えることです。

が、そんな簡単に
そんな風にいられる
わけもなく…。

で、どうするか?

というと…

降伏しちゃうのです!

言霊ですね。
降伏は
幸福なのです。

降伏とは

神仏の力を借りて
悪魔や煩悩を鎮めること

あらゆる害の元を
打ち負かすこと

真言密教における降伏は
仏の力を借りて
悪霊を退散させること

私たちの心の中には
様々な乱れや汚れが
現れるものです。

大いなる存在に己を委ね
それらを鎮めることが

降伏であり
幸福である。

と、思うわけです。

今朝は「ピュゥイ!」
という音が聴こえ

鳥のさえずりか
神やんの口笛か

あるいは何かが
生まれる音か

いずれにせよ幸福を
感じる音だったので

幸福について
書いてみました。

ちなみに「こうふく」
の数霊は12(1+2=3)

「今ここにある光」